キュンとした記念に取っときます
2010.01.17
バイト先のコンビニから急遽ヘルプコールが入ったのは二時間前だ。なんでもシフトに入ってた三人の内、ベテラン二人が風邪でぶっ倒れたらしい。海馬と自宅デートなんてベタなことをしてる最中だったのに、全く運が悪いったら。頼むよ来てくれよ一時間でいいんだ! 電話口でそう叫ばれて断り切れなかったオレがジャケットを引っ掛けボロアパートを出たのが一時間四十五分前。
ホントごめん客足ピークの一時間が過ぎたらすぐ帰ってくるからと謝ったオレに、海馬は然したる風もなく、いつもは自分がしていることだと言った。そりゃそうなんだけど、折角二人ともオフだった日曜に、珍しくオレンちなのに、残念過ぎる。だから近くの高校で部活生追い出しが始まってコンビニが賑わいまくる一時間が終わるなり、オレは飛んで帰ってきたんだけど。
ドアチャイムを鳴らしても誰も出てこない。ピンポン、と間抜けな音をもう一度響かせてみるが、扉の向こうからはなんの反応も返ってこない。
海馬、待ってるって言ってたのにおかしいな。思いながら自分で鍵を開けうちに入る。家の中は無人だった。
「海馬ー?」
一応呼び掛けてみるものの、これはアレだろうなと予測は付いていた。オレと同じ急な呼び出しが海馬にもあったに違いない。いつもならオレが置いてかれるシチュエーションだけど、今回はオレも出てっちゃってたから入れ違いになったんだろう。
急いで帰ってきたのになぁとガックリしつつリビングに上がる。オレはそこでテーブルの上に逆さ向いたコップが乗っかってるのに気が付いた。なんだアレ。近付いてみれば、どうやらコップは重石のようだ。その下に、メモが一枚挟まれている。
『20時には帰る 瀬人』
内容からすると書置きだ。そっか、海馬、八時には帰ってくるのか。つか、これ、いや、マジで?
書置きの内容なんか、理解したけど全然頭に入ってこない。だって、この字。そういや付き合ってそれなりに経つけどオレ海馬の字って見たこと無かったかもしれない。しれないってか絶対無かった。見てたら覚えてるよコレは。
ぐるんと頭でっかちに書かれた二。ゼロというより丸なゼロ。撥ねとか払いとかが全部止めになってる平仮名漢字。なんつうか、全体的に丸字。勝手に達筆なイメージを持ってたオレに、その書置きは衝撃だった。
コレ、本当に海馬が書いたんだろうか。てかさ、署名瀬人なんだ……? あー、アレかな、普段自分ちでモクバとかに書置き残す時の感覚で書いたのかな。瀬の字のサンズイ可愛過ぎんだけど。特に三画目。なんだそのチェックマークみたいな形は。しかも書き出しから終わりまで筆圧一定って。可愛過ぎんだけど!
海馬はオレがメモを手に悶えてる内に帰ってきた。
「……今気付いたのか?」
チャイムの音に玄関を開けてやると、海馬がちょっと怪訝そうな顔でオレの右手に視線を落とす。そういやメモを持ったままだった。
「あ、や、うん。オレも割りとさっき帰ってきたトコで」
そうかとだけ言って海馬がうちの中に入ってくる。その右手には紙袋が提げられていた。
「その袋、何?」
尋ねると、一拍置いて、明日は社に行かなくてもよくなったからと紙袋を突き出された。中を覗くと学ランっぽいものが見える。
「お。じゃ、今日はお泊りだな。んで明日は一緒にガッコ行くか」
喜んで部屋に海馬を引っ張り込み、可愛過ぎた書置きをゴミ箱の中で無く自分の机の上に置いたオレは、その明日が海馬にとって微妙に厄日なのを、まだ知らなかった。
といっても、昼までは別に何も無かったんだ。それは五時間目、世界史の授業の初めのことだった。
「このノート名前がなかったぞ。誰のだ?」
世界史では、前回の小テストのあとノート回収があったのだ。教室に入ってきたセンコーは、開口一番、一冊のノートをオレたちに向けてひらひら翳した。そんなの聞かなくたって全部のノートを見終っても名前の出てこなかった生徒だろ、と言ってはいけない。童実野高校はオブラートに包んで言うとあまり優秀で品の良い学校ではない。つまり提出物なんて面倒くさくて出してられっかよという生徒が結構いる。
センコーの持っているノートは青地の表紙に黒の背が付いたキャンパスノートだ。どこででも良く売られてるタイプのだけど、購買に置かれて無いからかうちの学校で使ってる奴はあんまり見ない。
「提出された中で同じノートを使ってる奴はいなかったぞ。誰だー? 字からすると女子のようだが」
誰だよ、とクラスの奴らが笑い混じりに言い合い出す。私じゃないわよ、私でもないわ。女子が近くの席同士騒ぎ出して、普段なら皆がワイワイガヤガヤやりだすところだったが。次の瞬間、教室は静まり返った。つかむしろ凍り付いた。
教室の端っこ、一番後ろの席で、明らかにむっとした顔の海馬が無言で小さく手を上げている。凍り付かないわけが無かった。字からすると女子のようだが。こう、弄っちゃいけない人間を弄っちゃった感がひしひしとする。
「あ、やぁ、なんだ、海馬か。やけに丁寧に書いてるから女子かと思ったよ。このクラスの男子は皆ノートが雑だからな!」
言い訳っぽいっちゃそうだけど咄嗟のフォローにしては上出来なことを言って、センコーは海馬の席まで近付いていった。途中で席を立った海馬がノートを受け取る。どうも済みません、と何てこと無いように言った海馬の声が、聞きなれてなきゃ判んない程度低くなっていた。
そりゃ怒るわな。でもセンコーが言っちゃった気持ちも理解できる。昨日のメモの字は思い返しても可愛かった。女子の字。確かに、あの丸っこさはそう見えないことも無かった。
そのあとはすぐに残りのノートの返却と授業が始まって、授業が終わる頃には皆海馬の字の話なんか忘れてたと思う。センコーが言った男子のノートは雑だってのはホントだし、海馬ならきっちりノート作ってても意外じゃないから、フォローも信憑性があったってところだろう。聞き流して終わり程度の話題になる筈だった。次の数学で、海馬が板書問題に当たらなければ。
出席番号が今日の人から席順で三人。その内の、海馬は二人目だった。問題は証明の応用問題だ。理詰め大好きな海馬に解けないわけが無い。だけど海馬は解らない問題を当てられた生徒みたいに嫌そうな顔で黒板に向かった。
三つに区切られた黒板の真ん中に海馬が立つ。白いチョークの粉を払って持ち、って、えええ、チョークその持ち方か!
鉛筆持つみたいに、しても異様に下の方を持って、海馬が板書を始めた。ぐりぐりと小さい範囲で手を動かしながら数式を書いていく。そりゃもう淀みなく迷いもせず。丸い字で。
あー、数字は特に丸くなんのな。やっべぇ、超可愛い。微妙に左に傾いてるのがまたなんとも言えない。四のてっぺんくっ付けるのか。八っつうか丸が二個だな。ただの棒である筈の一をそこまでキュンとする感じに書けるのはある意味才能だろ。
オレが食い入るように見てる間にも式は進み、段々、教室が落ち着かない様子になってきた。海馬の字に気付いた奴らが静かにざわめき出す。普段なら人の筆跡なんて興味無い奴のが多いだろうけど、まあタイミングだよな。女子の字ってどういうことだと、さっきの今じゃ気になった奴も多いだろう。
左右の式は詰まりながらもたもたと進んでいたが、まあもたもたでも解けるだけスゲェとオレは思っちゃうけど、海馬の板書は終わりに行き着いたらしかった。羅列された数字の下、一行分くらい空けて、『証明終了』の二語が記される。ちょっと大きいその字も、やっぱり丸い。
ことん、とチョークを置いて海馬が黒板に背を向けた。そして大股に机の間を通り抜け席へ戻る。その目の下と耳がちょっと赤くなっていた。
「海馬君の字なんか可愛い」
「というか海馬君が可愛かった今」
後ろの席の女子二人がひそひそ話してるのが聞こえてくる。物凄く同意したいがぐっと堪えて、普段は見もしない黒板の式を書き写した。
オレの字で書いたって可愛くもなんともないけど、心境の問題だ。うん。
数学が終わればもう一日の授業も終わり、残るはホームルームと掃除だけになる。担任の話を適当に聞き流し、掃除当番をサボろうとしたら、腕を杏子に掴まれた。
「アンタ今日当番でしょ。箒係」
ぐい、と緑の箒が押し付けられる。捕まったものは仕方ないので受け取って、斜め後ろにいた海馬を振り返った。
「つーわけだからちょっと待ってて」
二十分くらいだと言うと、海馬は頷いて教室を出て行った。どこで時間潰すんだろなと思ったが、廊下に出たところで同じく掃除当番の杏子待ちと思しき遊戯に捕まったようだ。海馬と遊戯なら二十分くらい会話も持つだろ。安心して掃除をすることにしよう。
「で、どこ掃きゃいいのよ」
「アンタ、完全にサボる気だったわね。どれだけ先生の話聞いてないのよ」
ベランダだと言って杏子はオレをベランダに押し出した。あとから塵取りを持って杏子自身もベランダに出てくる。
「それにしても意外ねー。海馬君と一緒に帰るわけ? アンタが」
「んだよ、オレたち最近仲いいんだぜ」
まあ趣味が一緒だものねぇと杏子がカードを切る真似をした。そうそうと同意しながら、それはあんまし話題に出さないで欲しいなぁとか思ってみたりする。そっちに関してはいまだに人間扱いされてない。骨だ。馬の、から凡人の、になっただけ、人の骨になっただけいいのかもしんねぇけど。いや、よくねぇな。畜生、なんで勝てないんだ。
「意外といえばさっきの板書も意外だったわ。なんだか丸くて可愛いんだもの」
「お前の字は可愛くないよな」
「失礼ね。確かに、さっきの海馬君の字を見て、文字チェンジしない? って思ったけど」
「自分で思ってんじゃねーか」
大して汚れていないベランダを大雑把に掃く。杏子がもうちょっと丁寧にしなさいよだの言ってるが、それは明日の当番の奴に任すことにして。
「ま、お前は字よりも書く内容のが可愛くなさ過ぎなんだよ。オレが初めて見たお前の字、『ちくったら殺ス』だぜ」
「ちょっと、それはノーカンでしょ? 普通!」
そうして考えるとやっぱり海馬の字は形も内容も可愛かったな。『20時には帰る 瀬人』って、オレンちなのに帰るってさ、そんな事実は無いのにまるで同棲してるみたいじゃね?
思い出してにやけそうになるのを堪え、最後のゴミを塵取りに突っ込んだ。
「おし、こんで終わりだろ。とっとと帰んぞ」
教室に戻って箒を片付け、鞄を引っ掴んで一直線廊下に向かう。海馬と遊戯が、殆ど同時にこっちに気付いた。
「あ、城之内君! 掃除は終わり?」
「おーよ。杏子もすぐ来んだろ。オレらは先帰っけど」
「あ、うん、じゃあまた明日ね! 海馬君もまた今度!」
遊戯に見送られて校舎を出る。下校の生徒でごった返す正門を抜けて、裏手の駐輪所に回った。
「今日どうするよ。会社行かなくていいってことは暇なんだよな?」
ゲーセン、サ店、ビリヤード? ボーリングでもしてみるか? 近辺の遊べそうなところを挙げていく。
「家でいい」
うん、まあ、そう言われる気はしてた。自宅デート。オレも好きだけどな。
「まだ誰もいないなら、お前の家がいい」
それは、つまり、二人きりがいいと。前言撤回。自宅デート最高じゃねーの!
そんなわけで、オレはあまり深く考えずに今朝出てきたままの家に再び海馬をお持ち帰りした。家に着いてから、よれた敷きっ放しの布団ってなんか卑猥だよな、そういやゴミ箱もアレコレ丸めて捨てたまんまだよ、と思い出したが、もう海馬も部屋に上がってしまっている。まあ、布団がよれてるのもゴミ箱のアレコレも半分は海馬の所為なんだし、気にされてもなんだけど。
でもさすがにゴミはアレとかコレとか見えてたら片付けよう。一応、汚れモンはティッシュで包んで捨てたような記憶が薄っすら残ってるが、ゴミ箱を覗いてみる。そこで、オレはそこにあっちゃいけないものを見付けてしまった。
軽く丸められた紙切れ。アレコレはオレの記憶通りティッシュの下に沈んでいるが、その上にぽんと放り捨てられたそれには見覚えがあった。
拾い上げて確認するとラッキーなことに汚れてはいない。くしゃくしゃなメモを広げてほっと息を吐いた。
「おい。城之内。何をしている」
「何って、コレ、あー、コレ捨てたのお前?」
少し皺が残ってしまったそれは海馬の書置きだ。オレは机に置いといた筈で、親父は帰ってきてなくて、そしたら捨てたのは海馬以外にありえない。案の定、海馬はそうだと頷いた。
「なんで捨てんだよー。オレ、コレ取っとくつもりだったのに。つか皺くらいいいし取っとくけど」
「捨てろ!」
海馬がメモを引っ手繰ろうとする。間一髪で躱したら、明らかに怒ってますって顔で睨まれた。
「そんなものを取っておいて何が楽しい。どうせお前も、昨日メモを見た時、内心馬鹿にしてたんだろう!」
「へ?」
馬鹿にするって何をだ。一瞬考えかけて、それから字のことかと思い当たる。メモの上にちまっと書かれた、『20時には帰る 瀬人』の九文字。
「馬鹿になんてしてねぇよ! そりゃ、お前のイメージと違う字だなーとは思ったけど!」
上手いか下手かっつったら上手くはない。間違っても達筆ではない。でも、あの海馬がこの字だぜ。
「馬鹿にするどころか、むしろときめいたっての……」
「はぁ?」
「なんかこう、ちょっとキュンとした! 可愛過ぎんだよこの字! 内容も!」
刺々しい性格が一つも反映されてない丸い丸い字。帰るって言葉と瀬人の署名。
不本意だと、海馬が呻くように言った。真っ赤になって、ああもう、字も可愛いけどお前のが可愛いよホントにさぁ。今度、スコアシート使ってデュエルしねぇ? って言ってみよう。
End.