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2010.01.21 


 温やかな、穏やかな人肌の微睡みに半ば自己を溶かされながら、海馬は緩やかに意識を浮上させた。
 窓から射し込む朝の陽射しが天蓋の合わせ目を割って内へと注いでいる。眩しさに蒼眸を眇め、綻びを掻き合わせようと裸の腕が伸ばされる。暫し的はずれに布の波間をさ迷うが、やがて面倒になったのかするりと毛布の中へと戻っていった。
 この方が手っ取り早いとばかりに毛布を手繰り寄せ頭まですっぽり被ってしまうと、海馬はちょうど鼻先に当たった柔らかな金髪に頬を擦りつけた。
 彼に似合わぬ、実に怠惰な朝。それを甘受している本人の身体さえもが日常との大差に戸惑っているようだった。
 若き当主は普段ならばこの時間には既に本社屋へと出社し、上から下まで檄を飛ばしまくって大いに労働を謳歌しているはずである。だがしかしこの日の彼は何故だか書類の代わりに凡骨の傷んだ金髪なぞを抱えていたりするのだから笑えない。そう、何故だか。
 至極不自然な状況だが言ってしまえば簡単なことだ。半ば労働基準法の看板に押し切られた形で急な一日休を取らされたとあっては、泣く子もさらに泣く海馬瀬人であろうと暇を持て余した挙げ句に一度は惰眠を貪ってみたくもなろうというごくありふれた経緯だった。尤も突然の予定の空白に戸惑っていたのは海馬ばかりで、今ではすっかり邸に馴染んでしまった飼い犬兼恋人の城之内克也などは諸手を挙げて喜んでいたのだが。
 彼曰く、『愛の時間が足りない』。せっかく泊まりに来て恋人同士の夜を堪能しているのだから、その延長線上にあるべき朝のいちゃつきだのべたつきだのをもっと味わいたいのだそうだ。
 そんな訳の解らない持論を携えてしなだれかかってきた城之内を惰性で受け止め、それなりな夜を過ごし、こうして朝を迎えた。思えば朝とはいつもすれ違いばかりの時間だ。今だかつて浸ったことのないぬるま湯に全身を投げ出し、海馬は小さく欠伸をした。
 思考すら気だるい。覚醒の足元にまたも睡魔が忍び寄ってくる。それは質の悪い泥濘じみてふたたび意識を取り込もうとする。心地よい倦怠感に任せて海馬がすべてを放棄しようとしたそのとき、不躾にも不意に帳の向こうから鳴り響いた雑音があった。
 それは本社からの緊急連絡用端末として常に側に置いている携帯の着信音だったはずだ。その証拠に忌々しくも音源は天蓋の外側、ベッド横のサイドボードと思しき位置でやかましく主張している。昨晩そこに放り出した記憶まであるのだから決定的だった。
 鳴り止まない着信音に海馬の腕の中でもぞりと城之内が身じろぐ。舌打ちを一つ、海馬は犬を抱き込んでいた腕を解き、できるだけ静かに毛布から抜け出した。
 傍迷惑な端末をひっ掴み、早々に通話ボタンで黙らせつつ足早に隣室へと移る。扉が控えめな音とともに閉ざされ、寝室には暢気な城之内の寝息だけが残った。
 遠くフランス窓の外で小鳥が囀っている。広い庭を抱える海馬邸の奥まったこの部屋には道路を走る車の騒音など届かない。ただただ、長閑だ。
 取り残されたとは露知らず、深い眠りの内の彼が三回ほど寝返りを打ったころ、出ていったときと同じく足音を潜めて海馬が戻ってきた。先ほどと違うといえばその格好が戦闘服、もといスーツだという点が一番大きい。
 未練の抜けきらない面持ちで天蓋越しに城之内を一瞥するすっかり冴えた青。溜め息を吐きつつサイドボードの引き出しからメモセットを取り出し、身を屈めて何事かを書き付ける。比較的ペン先に近い位置を持って、十文字にも満たない伝言を薄い紙切れに刻んだ。
 どうでもいいことだが、海馬は『時』という字が苦手だ。何故だかは解らないのだが、どうにもバランスが取りにくい。偏(へん)と旁(つくり)が分離してしまったり、寺が組み文字の様相を呈してしまったりと、神経質な海馬にとって常用漢字のうちでは特に敵視している存在である。
 このときも特にその一文字だけは無意識のうちに力がこもる。そろりそろりと最後の点を打ち終え、次の平仮名に移る際に海馬の口元には薄い笑みが浮かんでいた。いつもより上手く書けた──気がする。
 簡潔な文末に署名を記し、どこか満足げに頷くと、たまたま足元に落ちていた下品な商品名の紙箱が目についたために拾って重石代わりに乗せた。

 休みが潰れたのはまあ、別にいい。仕事は嫌いではないのだし、元々この日は出勤だったのだから。
 今まで味わったことのない朝の一時を持っていかれるのは惜しい気もするが、それも致し方あるまい。いいのだ。どうせ、遅くはならない。
 二十時には。二十時には帰るのだから。

 胸中でぶつぶつと唱えながら、海馬はベッドの城之内、そしてサイドボード上の紙面に並ぶ文字列の三つめを見比べた。
 『時』の形が自分の中では断然良く見える。今日は一日良い風が吹きそうだと彼にしてはひどく間延びした根拠のない予感を抱きながら、海馬は足音を殺して寝室を今度こそあとにした。



 そしてひとり残された城之内が目覚めたのは、それより数刻も経ってからだった。
 遠慮なしに射し込む陽光にうっすらと重い瞼を押し上げ、毛布の中手探りで低い体温を探す。しかしいくらまさぐってもそこは裳抜けの殻で、物足りなさを覚えた城之内はのそりと身を起こした。
 乱雑に寝癖頭を掻き回し、大きな欠伸を漏らす。腕を振り上げ身体を伸ばし、あらためてベッドの上に視線を巡らせればやはりそこは空だった。
 そういえば夢うつつに目覚ましのような耳障りな電子音を聞いたような気がする。それが意味するところはもはや明確で、どうやら自分の恋人は休日にも関わらず急な仕事が入ったのだろうと考え至り、城之内は実に意図しない落ち込んだ気分で遅い朝を迎えることとなった。
 しょんぼり肩を落としながら周囲を見回す。天蓋の遮幕は既に上げられ、明るく清潔でありながら空虚な寝室が剥き出しで視認できた。
 ふとベッド横のサイドボードに目が止まる。調った木目の天板に白い紙が小さく主張していてついと手を伸ばしたのだが、それを書き置きだと理解する前に重石代わりのものが何かという時点で彼は目を剥いた。
「んな、あのやろ……!?」
 罫線もないメモ用紙を押さえていたのは、紛れもない某ゴム製避妊具の外箱だったのだ。
 思わず呻き声が口を突いた。天蓋が上がっているということは既に朝のうちに使用人が部屋に入っているということだ。空間の中で異質を放っていた“これ”は当然彼もしくは彼女の目に留まったことだろう。
 荒々しい手つきでその下から紙片を抜き取る。予定崩れへの苛立ちか、脇で間抜けに寝こけていた城之内への意趣返しか。やってくれるじゃねえかと頭を抱えたい気分になりながら手の内の文面に目を走らせた。

  『20時には帰る 瀬人』

 しかし得てして城之内克也は海馬瀬人には敵わないと決まっているのである。もう世界の理(ことわり)といってもいい。ほんの些細な気まずさなどどこへやら、城之内はその十に満たない文字列に一瞬で毒気を抜かれてしまった。有り体に言えば、粉砕された。
 海馬の筆跡を何かの折りに目にする度、彼は毎度毎度その場をのたうち回りたい衝動に襲われる。だって、可愛いのだ。
 別々に書いた部首を組み合わせたような漢字はすべてのはねはらいがとめになっている。平仮名はさらに小さい。数字になると丸みが激化する。丸みに激化というのもどうかと思うが、城之内には激化としか言い様がないのだから仕方ない。
 全体的にちまちまとした丸字は女子高生のやり取りするメモ手紙のようで、海馬瀬人らしくもなく、また海馬瀬人の見えない部分すべてを表しているように思えた。
 さらにそれとは別に、シチュエーションフェチの気がある城之内にとっては現在の状況がどうしようもなく美味しいものに感じられてならない。濃密な夜を明かした朝、目覚めの淵に愛しい人の姿はなくても、ともに過ごすときを惜しむような書き置きがそっと残されている。想像するに、寝ている恋人を起こさないよう静かに出ていったに違いない。

 くーっ、いいねコレ。よく分かんねえがなんかイイ。
 夫婦みたいじゃねえ? 俄然燃えるね。「何が?」って話だけど。

 そんなことを思って暫しじったんじったん暴れていた城之内だが、ふと冷静になって考えてみるとこの図は夫婦というよりもキャリアウーマンとそのヒモという関係に程近いものだということに思い至った。嫌すぎる。
 途端げんなりと下降しだす気分を振り払い、彼は冷えてきたベッドから漸く抜け出した。
 まだ時計の短針は二桁を数えたところだ。バイトがない分夜までが長い。一度自宅に戻り部屋の片付けでもしていようと予定を書き換えた。次は海馬がこちらに来ることになっても大丈夫なように。
 昨晩行為に持ち込む前に放り投げた下着がチェストに引っ掛かっているのを見つけ、城之内は裸のまま部屋を横切る。引き出しを覗き込み、置いたままにしている衣服の中からジーンズとTシャツを引っ張り出すと手早く身につけていく。
 適当に身支度を整えてから、手の中のメモにふざけ半分に唇を押しつけた。浮き足立つようなざわめきを抑えられない。少年と青年の狭間で恋心が弾む。
 たとえ屋敷を出たところでこけたって、昔の縁で柄の悪いオトモダチが絡んできたって、今日はある程度気にしないでいられる自信があった。何せ幸せの切符はこの手にあるのだから。どんな不運に見舞われようと、終点には海馬がいると小さな紙切れが保証していた。
「おーっし、良い日になりそうだぜ!」
 まずは親愛なる弟君に遅い挨拶から。足取りも軽く、城之内はもう昼も近い寝室の扉を押し開けた。




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 (Come, A Good Day!)



End.

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須江藤 祐文/Royal Black:Noble Noir

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