二つと無き世界
2010.02.14 


 目が覚めて新聞配達をし、二度寝して、学校に行ったら世界がおかしかった。それはもう、夢でも見てるのかと思うくらいに。
「城之内君お早う! どうしたの? ぼーっとして」
 何がおかしいってまず遊戯がおかしい。口調や表情はいつもの遊戯だ。オレが教室に入るとお早うって挨拶してくるのもいつものことだ。けど。
「遊戯、お前さ、その背……」
 おかしいだろ! 遊戯の身長が海馬並みになってたら! なんだよコレどういうことだよ成長期にしたって一晩でこんな伸びるわきゃねーだろ!
「背?」
「なんだ城之内、遊戯の背がどうかしたのかよ」
 しかしそんな遊戯の背に疑問を抱いてるのはオレ一人らしい。というかやっぱり世界がおかしい。真っ先に目に付いたのは遊戯の背だけど、他にも色々とおかし過ぎる。
 本田は、大きく変わってるわけじゃねぇけど、なんかちょっと美形になってた。基本は一緒なんだけど、どことなく顔の中身が。あー、解った、目が違うんだな。黒目デケェ。あと鼻筋。
「本田くぅーん、ね、こっち来てー」
 その本田は、女子に呼ばれてそっちへ行ってしまった。やー、ねぇわ。なんだこの世界。
「本田君も大変だね」
「ほんとほんと」
 聞き覚えのある声に振り返ると御伽と獏良が二人で静かに駄弁っている。見た目は変わらないけど、コイツらが二人でいて寄ってくる女子がいないなんて珍しい。これも世界が変なのの一端だろうか。
 ぐるりと教室を見渡し、他にはどこが違うだろうと探してみる。そしてオレは遊戯並みに、いや、もっと変わってしまっている奴を発見した。
「あ、海馬さん今日は来てるんだね」
 あ、これも他の奴らにとっては日常なのな。本当になんなんだこの世界。
 遊戯の背は海馬並みになっていたが、逆に、海馬の背は遊戯並みになっていた。しかも、女子制服を着てて、胸はボタンが弾け飛びそうなボインボインというオプション付き。
「海馬さんお早う!」
「お早う」
 なんとビックリ。遊戯の挨拶に海馬、らしき人、が挨拶を返しました。おかし過ぎるだろこの世界。こんなことで確信するのもなんだけど、おかしいわコレやっぱ。夢か。夢だな、うん、きっと。
 と思って頬を思いっきり抓ってみて、オレは即座に後悔した。ヤベェ、痛い。どうしようコレ。夢じゃないってか。もしかして今までオレが現実だと思ってた方こそが夢? いやまさか。
 あべこべな世界にでも来ちまったんだろうか。子供の頃にそういう漫画読んだな。この世には何もかもが正反対な世界が存在してて、主人公はなんかの弾みにそっちの世界の自分と入れ替わっちまったんだ。あの漫画、最終回はどうなったんだっけ。主人公はどうやって元の世界に帰ったんだっけ。そもそも帰れたんだっけ。
「あら城之内、浮かない顔ね。悩みごと?」
 漫画の結末を思い出そうとしてたオレは、ばんと叩かれた背中の痛みに我に返った。いってぇな、もうちょい弱く叩けってんだ。いつもいつもガサツな――
「――杏子?」
「何よ」
 思わずまじまじと眺めた。ガサツなところも、見た目も、表情や口調や反応も、いつも通りだ。違うのはこの異常な世界を異常だと思ってないってとこくらい。
 なんだ? なんなんだ? あべこべな世界ですらないのか?
 その時、始業のベルが鳴り響いた。
「もうこんな時間ね。早く席に着かなきゃ、先生が来ちゃうわ」
 言いながら杏子が離れていく。ベルが鳴り終われば全て元通り、なんて展開は、期待したけど訪れなかった。


 一日の授業が終わっても、世界は元に戻らなかった。相変わらず遊戯の背は海馬並みだったし、海馬の背は遊戯並みで乳はオレ好みの巨乳、本田はもててたし、御伽と獏良は静かな一日を過ごしてた。杏子には変わってるところを見付けられなかったが、他の奴らは大なり小なり変なままだ。
 このまま元の世界に戻れなかったらどうしたもんか。このままこのおかしな世界で暮らすことになるのか?
 けど、不思議なのは、誰もオレを変だって思ってないところだよな。本当に世界が入れ替わってしまってるならオレだって周りの奴らに違和感を与えてて不思議じゃない。オレは杏子みたいにあっちとこっちであんまり変わりが無かったんだろうか。それとも、入れ替わったんじゃなくて元いた世界が今の世界に変化したのか。
 謎は解けないまま数日が過ぎた。
 段々諦めモードになりつつ、オレはかったるい古典の授業を受けていた。戻れないんだろうか。それならそれでこっちの世界に慣れねぇとな、なんて、真面目にテスト範囲を聞いてみたりする。
 まあこっちの世界だって悪くは無い。本田や御伽、獏良は現状に至って満足そうだし、遊戯も背が伸びて良かったじゃん。こっちだと海馬もなんか突っ掛かってこないし、あの胸は目の保養だし。お、板書してら。あんまり無理して高いトコに書こうとすると黒板に胸激突すんぞ。あ。
 制服にチョークの粉が付いたようだが、気にしない様子で海馬は板書を続けた。いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに――。そりゃあもう見事な達筆でさらさらと、教科書の文、それからその訳が書かれていく。こっちの世界でも海馬の頭はいいようだ。


 その日の放課後のことだった。
「大丈夫よ、今年は丸々土日があるんだもの。一回や二回失敗したって、作り直す時間くらい!」
 相変わらずチビの巨乳と化してる海馬に、杏子が何やら熱弁している。今日が十二日の金曜日で、丸々土日があって失敗したら作り直しということは。
「何、お前らバレンタインの相談?」
「きゃあ、城之内! 女の会話に入ってこないでよ!」
「入ってこられたくないんだったら教室でんな話すんなっての」
 杏子の声は大きい。そして非常に良く通る。オレが話し掛ける前から一部の男子は聞き耳を立ててそわそわした様子だったくらいだ。あいつら、どっちのチョコを期待してんのか知らねぇけど。
「で、誰に渡すつもりなんだよ」
「アンタ、ほんっとうに、デリカシーゼロね!」
 杏子が呆れたように怒鳴るという高等芸をやってのけた。海馬はその隣で耳を真っ赤にして俯いている。対極の反応だ。海馬を突付いてみたい気もしたが、追究はしないでおく。端から教えてもらえるとは思ってないし、これはあんましからかったら可哀想な感じだ。元いた世界の海馬なら盛大にからかってやったけどな! こっちの海馬はちょっと大人しくてちょっと素直なので、なんとなく罪悪感が。
「ま、誰にやるにしても、チョコ作んだったらお零れ期待してるぜ!」
 義理でいいからさーと、軽い調子で言ってみる。その途端、海馬が俯いてた顔を上げた。横で杏子が、あ、と声を上げる。それと海馬が薄っすら涙ぐんで走ってったのは殆ど同時だった。
「……え」
「アンタって馬鹿! 本当に馬鹿! アンタが今年もらえるチョコの数がゼロになったら、それはアンタ自身の責任なんだから!」
 周りから失望の溜息が聞こえてくる。失望ってのは、杏子がオレに怒ってるデリカシーの無さだとかへのじゃなくて、ヤローのガッカリ感とかそんなんだけど。
「えええ、や、だってさぁ、え、マジで?」
「馬鹿! 馬鹿!」
 杏子は馬鹿としか言ってくれない。けど、あの海馬がって、そんなの夢にも思ってないに決まってるだろ!
 そう考えて、こっちの世界の海馬はあの海馬じゃなかったということを思い出した。こっちの海馬は、ちょっと大人しくて、ちょっと素直で、変わり過ぎな見た目を置いといても、ぶっちゃけ可愛い性格してた海馬だ。
「……うわ、オレやらかした? 謝った方がいい?」
「知らないわよ! というかどっちの意味でよ!」
 杏子はそう言うと鞄を引っ掴んで走り出そうとした。
「あ、待て! 待てって杏子!」
 多分海馬を追い駆けるんだろう。腕を掴んで引き止めると、焦った様子で杏子は何よと叫び返した。
「義理じゃないなら、そっちの方がいいって、言っといて」
 認める、認めるよ。こっちの海馬は普通に可愛かった。乳が好みとかそういうのは別にしても。
 杏子がオレの手を振り払って走り出した。ドアのところで一旦振り向く。
「そんなの自分で言いなさいよね!」
 正論だ。けどな。
「連絡先知らねぇよ!」
 どこに向かって走ってたのか見当も付かねぇよ!


 そして当のバレンタイン。オレはまだこっちの変な世界にいた。日曜だから学校も無く、杏子はちゃんと言っといてくれたんだろうかとか、放課後で人影も疎らだったとはいえ教室でアレは我に返ると恥ずかしいとか、そんなことを思いながらバイトに精を出す。つかいつもの癖で現場に来ちまったけど、誰も驚かないってことは、こっちの世界でもオレはバイトしてんだな。入れ替わったのかオレ以外がおかしくなったのかは解んねぇままだけど。
 バイトは元の世界でのオレのシフト通り、昼に始まって夕方早くに終わった。アパートへ帰り、着替えようと箪笥から服を出す。括ってた後ろ髪を解こうと手を伸ばした時だった。
 ガコン、と、玄関で音がした。一瞬今日の夕刊は早いなと思い掛けたが、んなわけ無い。日曜は夕刊休刊日だ。しかもそれ以前の問題としてうちは新聞取ってない。隣の家の音にしては大きかったし。
 なんだなんだと玄関へ行ってみると、普段稼動しない新聞受けに、綺麗なラッピングを施された平たい箱が入っていた。もしかしてと取り出してみれば、リボンの間にメッセージカードが挟まっている。宛名しか書いてないけど。城之内克也様。物凄い達筆で、オレの名前が書いてある。
 ドアを開けた。開放廊下から外を窺うと、大通りの方角に向かって走っている海馬の姿が見えた。取るものも取り敢えず、鍵だけを大急ぎで閉める。階段を駆け降りた。あの距離なら、多分追い着ける。


 走って走って走ってると、途中で海馬が速度を落とした。オレが追い駆けてるのには気付いてないみたいだから、さすがに疲れてきたのかもう充分うちから離れたと思ったのか。歩き出した海馬とオレの差が縮まるのはあっと言う間だった。
「海馬!」
 呼び掛けて、そのすぐあとに肩を掴む。海馬がきゅっと身体を縮こまらせて立ち止まった。
「じょ、城之内。どうしてここに」
「どうしてって、お前、チャイムくらい押してけよ。これ、お前だろ」
 チョコレートだろう箱に付いてたメッセージカードを取り出す。流れるような筆跡で書かれた文字には見覚えがあった。金曜、海馬が板書で書いてた字と一緒なんだ。それに放課後の会話とこのタイミング。
「それは……でも、義理でいいということは、そんなのどうとも思って無いんだろう」
 杏子の奴、自分で言えを強制実行しやがった。これ、擦れ違ってたらどうしてくれたんだ。
「あのな、義理でいいってのは言葉の綾ってか、義理じゃないならそっちの方が断然いいというか、ああ、もう」
 ぐだぐだ言いわけ染みたこと並べるのは苦手なんだよ!
「好き。だから、本命だって言われたらすっげ嬉しいんだけど」
 告げると海馬はビックリしたように目を見開いて、それから、小さく微笑んだ。あ、可愛いな。
 けど、そう思った瞬間、オレは足元から世界が崩れていくような感覚に襲われた。きっと元の世界に戻るんだろう。分かって、安心すべきなのにどうしようもなく淋しくなる。なぁ、そりゃ元の世界に戻るのが自然なんだ。だけど、今この海馬を置いて戻れなんて、幾らなんでも酷いんじゃねぇの?


「城之内君!」
 ほんの一瞬意識が途切れて、気付いたらオレは保健室のベッドに寝ていた。遊戯が、もう一人の方のだ、オレを覗き込んでいる。もう一人の遊戯だから正確にはさっきまでの世界とリンクしてないが、一応遊戯と共同である筈の身体は、オレより二十数センチほど低い状態に戻っていた。
「城之内君、済まない……少し、失敗してしまって」
「何を、ってか、オレが見てた変な世界ってお前がなんかしたのが原因なのか?」
 不思議と、こっちに戻ってきてしまえばあっちの世界でのことは現実味の無い夢としか思えなくなっていた。戻る間際気懸かりだった海馬のことも、きっと実在しない存在だったんだろうと、一抹の淋しさはあれど軽く考えられる。
「にしても、ホント、なんだったんだアレ。遊戯が海馬並みに馬鹿でかかったり、海馬が縮んで可愛い女の子になってたり、本田がもててたり、無茶苦茶な世界だったぜ」
 遊戯が失敗したと謝るということは大方闇の力とかそういうことなんだろう。発動先間違えたとか、発動内容間違えたとか。オレも大概オカルト慣れしてるよなぁと思いつつ、細かいことは気にしないようにする。遊戯なんだから、そういうことを起こしても全く何も不思議じゃない。
 だから、気にしてない、むしろ面白いモン見せてもらった、とでも教えるつもりで言ったんだ。遊戯が海馬並みに馬鹿でかかったり、海馬が縮んで可愛い女の子になってたり、本田がもててたり、そんな滅茶苦茶な世界だったって。
「城之内君……」
 なのに遊戯はとても虚ろな表情になって、というか死んだ魚のような目になって、オレの名を呟いた。
「え、何、その反応」
「城之内君……キミが見た世界が何か、オレは説明してもいいだろうか」
「ん? うん」
「本当は、きっと言うべきじゃないんだ……だけどオレは今聞いてしまった事実を一人で背負えるほど強くない……!」
「だからいいってば。むしろオレも何見たのか気になるし」
 願望の世界だ。たっぷりと間を置いて、遊戯はそう言った。願望。
「……願望、って、それマジな話? てかオレは何望んでんだ!」
「いや、城之内君、あの世界にキミの願望は反映されてない筈だ」
「へ?」
 ということは。あの世界の登場人物個々の願望なのか? ああ、確かに、そう考えた方が辻褄は合う。遊戯の背とか、本田のもて振りとか、他人が望むような内容じゃない。
「城之内君。相棒は多分結構深刻だと思うんだ……本田君も。海馬も、キミの口から聞いた分だけではなんとも判断できないが、その……だから、このことは、オレたちだけの秘密で終わらせてくれ……」
「遊戯……」
 お前、心の底からとんでもないモン見せてくれたよホントに!


 教室に戻るとそこにはいつも通りの光景が広がっていた。黒板の端に書かれた日付は、オレが願望の世界で過ごした数日が全部幻だったことを示している。
「あら、遊戯、城之内。大丈夫だったの? なかなか戻ってこないから心配したわよ」
 オレたちに気付いた杏子が近付いてくる。そういや杏子はあっちの世界でも全然変わってなかったな。現状に満足してるってことなんだろうか。カッケェな、それ。
 そして、オレの席は、うっかり海馬の席と隣接してたりするわけです。こんな日に限って登校してるしさぁ。あああこれどうすんの。ひたすら激しく途轍もなく顔が見辛いんだけど!
「健康だけが取り得だと聞いた気がしたが気の所為か? 引き摺られて教室を出て行く様はなかなか無様だったぞ」
 座った途端に嫌味っぽい言葉が飛んでくる。でも。
「無様ってなんだよ無様って。てかオレは健康そのものだし。アレは遊戯が闇の力失敗したんだっつの」
 ヤベェ、オレ今、海馬語理解してるわ。大丈夫かの一言がなんでそんな回りくどくなんのかは理解不能だけど、コイツ、そう思って見ると結構顔に出てんのな。
 さっきのアレが願望の世界ってことは、そういうことだよなぁ。なんか信じらんねぇけど海馬はオレのこと好きで、それを人に相談したがってて、自分が女だったら良かったのにって思ってるんだ。好きと女だったらのどっちが先なのかは知らないが、そういうことなんだよな。
「……なんだ」
 思わずじっと見てたらしい。海馬がほんのちょっと耳を赤くして戸惑うように言った。なんでもないと誤魔化しつつ、なんでもなくなんてないことにオレは気付いてしまった。
 あっちの世界で、オレは海馬のどこを可愛いと思ったんだった? 縮んだ身長でもオレ好みのでかい胸でもない。この海馬がああなりたいと思ってるって、その性格じゃなかったか?


 それから数日、オレは願望の世界で過ごしてきた筈の日々を現実の中でやり直した。結構長い日数あっちにいたんだなぁと、今更のように思いながら、迎えた今日はバレンタインデーだ。やっと、現実が願望の世界に追い着いた。
 一度そうして過ごしたように、昼からバイトに行き夕方に帰宅する。作業着から私服に戻ろうと服を出し、括ってた後ろ髪のゴムに手を伸ばした時だった。
 ガコン、と、玄関で音がした。こういうのなんていうんだっけ。デジャブだ。
 慌てて玄関に向かう。郵便受けに、オレでも知ってる有名なチョコレート専門店のロゴが入った平たい箱が投函されていた。取り出せばリボンの間にメッセージカード。もしかして。開いてみると、そこには宛名だけが書かれていた。城之内克也様。オレの名前だ。だけど、オレはそこでデジャブが崩れてくのを感じた。
 宛名の字は丸っこくてバランスの悪い、いかにも女の子らしい、可愛い字だった。海馬の達筆ではない。
 チョコは嬉しいけど少しガッカリした。もしかしたら、もしかしてって思ったんだ。もう自分を誤魔化すのはやめるけどさ、海馬の願望があの大人しくて素直な海馬だって知って見れば、キツイもの言いも、そのあとで、なんで素直になれないんだろうって感じの顔してるのも、全部可愛く見えんだよ。そこにこのデジャブで、一瞬期待したんだ。
 くれた子には申しわけないが、これが海馬の達筆だったらどんなに良かっただろう。もう一度メッセージカードを見る。ころころと丸い字。海馬の字とは真逆の――真逆? 違う。
 はっとした。そうだ、オレが海馬の字を見たのはどこでだ? 願望の世界じゃねぇか! 達筆であることも海馬の願望の一つだとしたら。
 ドアを開けた。開放廊下から外を窺うと、大通りの方角に向かって走っている海馬の姿が見えた。取るものも取り敢えず、鍵だけを大急ぎで閉める。階段を駆け降りた。追い着けるだろうか。あっちの世界と違ってコンパスの長い海馬に、この距離から追い着けるか?


 階段を降りてる間に姿が見えなくなって、けど願望の世界とおんなじルートを走ってんじゃないかって予感がして、オレはその方向へ走った。こっちにいろよ、と祈るような気持ちになる。今、この機会を逃したらもう無理な気がするんだ。だから。
 結論から言うとオレの直感は当たってた。オレが再びその背中を捉えたとき、海馬は既に歩いてて、それからオレが海馬に追い着くまではすぐだった。
「海馬!」
 腕を掴む。振り返った海馬の目が、ぱちぱちと、状況が飲み込めないとでもいうように瞬いた。
「――城之内。どうしてここに」
「どうしてって。これ。これ、お前だろ。なぁ」
 丸字の躍るメッセージカードを突き出す。見覚えの無い筆跡。海馬のイメージとは似ても似つかない字。だけどこれは海馬の字だって、オレは確信していた。だって、海馬のイメージじゃないけど、願望の世界の海馬のイメージではあるんだ。字には性格が出るっていうだろ。だったら、海馬が普段押し込めてる性格、そのイメージが字に出てたっておかしくない。
「な、んの、話か……」
 海馬がしらばっくれる。でも、その声は震えていた。
「好き。だから、これがお前の字ならすっげ嬉しいんだけど」
 告げると海馬はビックリしたように目を見開いて、それから、小さく微笑んだ。
 今度は、世界が崩れたりなんかしなかった。


 それから一ヶ月、三月十四日の日曜日。
「これ、バレンタインのお返し」
 海馬のチョコレートはあとで調べた結果目玉が飛び出る高級品だったので、申しわけないことに三倍どころか三分の一返しだが。オレが差し出したキャンディボックスを海馬がおっかなビックリって様子で受け取る。
 包みを開けようとして、立ったままではやりにくいと思ったのか、海馬は馬鹿でかい天蓋ベッドの端にちょこんと腰掛けた。ここはラブホテルでもなんでもなく、そのお姫様のベッドみたいなベッドは海馬の自前なわけだけど。
 横に座りながら、無防備だなと思う。警戒されなければ緊張もされず、かといってそれっぽいムードを出されるわけでもなく。頭に無いんだな、そういうことが。色恋全般に疎いのか同性だからか知らないが。
 しかし、正直に言えば頭ン中では既に数回やっちゃってるオレとしては、清く正しいお付き合いは一ヶ月もすれば充分だ。てかヤりたい盛りの高校生が一ヶ月経ってまだ、ちゅってやる程度のキスしかしてないって、それ全然正しくなくね? むしろ間違ってるってコレ。
 そうは思うものの一ヶ月手を出しあぐねたのにも理由はある。願望の世界じゃ女の子だった海馬だけど、それはそっち側でいいって意味に取っていいんだろうか? 現実の海馬が全くその辺の意思を見せないから、雰囲気で押し流して大丈夫なのかどうか迷うんだよ。
 それに、願望の世界はオレが好きって言ったところで終わってしまった。あれは、あの世界の人々の願望が全部叶った瞬間なんじゃないのか。だったら、海馬はそれ以上のことは望んでないのかもしれない、とかさ。
 つまり、嫌がられたら傷付かない自信がねぇとかそういうわけでオレは一ヶ月現状を維持してしまったのだった。
「お前も一つ舐めるか?」
 オレがごちゃごちゃ考えてる間にラッピングを開けた海馬が、キラキラのフィルムに包まれた飴を手にしている。うんと頷くとそれをオレに渡して、海馬は缶からもう一つ飴を取り出した。白い指先が飴のフィルムを左右に引く。出てきたピンクの球体が海馬の口に運ばれた。
 キスしたら驚かれっかな。舌入れてべろちゅーかましたらどんな反応されるだろうか。拒否られたらショックだ。でも、このシチュエーションを逃すほど、オレはチキンじゃねぇよ。
「海馬」
 呼び掛けて、振り向いた海馬にちゅっとキスをする。
「な――」
 にを急に、かな。言い掛けて唇が開いたところにもう一度。今度は頭固定して舌突っ込むというオマケ付きで。
「ん、ん……ふ、ぅ」
 くぐもった息が漏れ音を立てる。海馬の口の中で飴玉を転がしてやりながら、さり気無く、乗りかかるような体勢に持ち込んだ。いいよな。なんかキスも受動的だし。オレこっち取っちゃっていいよな。
「飴ごちそーさま。そんで」
 いただきます。言うとさすがに海馬も意味が解ったようだ。きょとんとしたあと、あ、そうか、って感じに瞬いて赤くなった。そうだよ、どっちかはいただきますされる側になんだよ。今気付いたと言わんばかりの表情にはちょっとフェアじゃないものも感じるが、抵抗が無いってことは、まあ、うん。
 タートルネックの裾から手を忍び込ませる。脂肪の少なそうな触り心地が、ああ男だなって今更実感させた。頭ン中じゃもうちょっともちもちしてたなぁ。現実は脂肪が少ないってか抱き締めたら骨が刺さりそうだ。服を捲れば肋骨が浮いてるし、脂肪というか肉が少ない。
 多分、客観的に考えると、オレの好みの相当な射程外の身体だよ。オレはどっちかっつーと肉が付いてて胸のでかい子が好きなんだ。願望の世界の海馬みたいな。なのに、なんでオレはこんなあっと言う間に勃ってんだろね。所詮好みなんて感情に比べたら二の次三の次ってことか。
 筋肉すら薄い扁平な胸を撫でさすると、海馬は居心地悪そうに身体を捩った。
「逃げんなって」
「……そんなところ、触って何が楽しい」
「んー、お前の反応?」
 揉むところが無いので直球で乳首を弄る。豆粒どころか点、どころか、欠片も出っ張ってすらない、皮膚の上の模様みたいなそれを舐めた。舌触りだけは他と違って少しざらついている。キスマークを付けるみたいに、それよりは弱くだけど、そこを吸ってみた。
「ぁ、っ」
 声に顔を上げると、海馬が困ったような顔でオレを見下ろしていた。頬が赤くなってるのは照れてるのかよかったのかどっちだろう。
「かわいーの」
 ぷい、っと横を向いたりしても余計に可愛いっつうの。このままだと途中で暑くなりそうだから、タートルを脱がすべく、腕上げてと頼んでみる。海馬は割りと素直に従って、意外だと思ったら、脱がされてからオレの意図に気付いたみたいだった。
「お前は」
 そのまま進めようとしたら、海馬の手がオレのシャツの裾を引いた。ちょこちょこ愛撫でもしながら脱ぎゃいいかなと思ってたが。そういうことされるとさ。
「海馬が脱がして」
 薮蛇ったって、モロに顔に出てるのがなんとも言えない。ホワイトデーだし口実にいけっかなとか、そしたら自分で脱ぐかなとか、まあ健全な男子高校生らしいことを考えて着てきた服だからボタンシャツだ。コレ、自分で脱ぐなら片手で脱げるから便利だけど、脱がしてって言われたらキツイだろうな。当然のように男ものだから、合わせが正面からじゃ外し難い向きになるし。どのボタンから行くべきか迷ってる海馬を見ると、合わせ云々が無くても駄目そうかなという気もするが。上から外してくれ上から。迷ってるの可愛いから口出さないけどな!
 口を出さなかった結果、下から外されたのは、まあ、良しとしよう。上から順番に外してって、流れでジッパー下げるトコまでやってくれたら最高だったとは、この際、言うまい。ボタンと格闘してるの見れただけでいいよ、ホント。
「あ、ぁ、邪魔、するな……っ」
 待ってるだけも退屈なので、首筋とか二の腕とかにちょっかいを掛けてやる。今留まってるボタンの数は三つ。端から三つしか留めてないので、まだ一つも外されてない状態だ。別に自分で脱いだっていいんだけどさ、海馬は意地でもボタン外しを完遂したいらしい。ちょっかいの手をかなりねちっこくしてみても、びくびく震えつつシャツは離さない。
「ゃ、あ、やめ」
 頬を撫でると首を振られた。髪を梳くとそれには無反応。毛先を弄って待っていると、少しして一つ目のボタンが外れた。得意気かつ満足気に見上げてくるのは可愛いけど、お前、それ得意気になれるほど手早くないからな。幾ら合わせが逆でも。待ってる間に辛抱堪らない状態になってた身としてはそこのところを訴えたい。
 二個目に取り掛かろうとするのをやんわり制して、残りは自分で外してしまう。海馬がちょっと不服そうなのは見ない振りだ。ボタンを外すために少し下へずれていた海馬の身体を引き上げて、ついでだから枕のところまで移動させる。途中でズボンも脱がせてベッドの下へ放り出した。得意気になれるほど手早いってのはこういうことだ。
 内腿の、足の付け根の窪みに指を這わす。海馬の足先が突っ張ってシーツを掻いていた。中心で勃ち上がって揺れてるものにも触れつつ、後ろ側へ手を伸ばす。固く窄まった、こんなトコ本当にいけんだろうかと心配になる穴を突付くと、海馬の身体が大きく跳ねた。
「あ、よかった、一応性感みたいなのはあんのな」
 ぐり、と中心で指先を回してみる。
「あ、ぁ、そこは、っ」
「イイ? ここ使うからさ、全然だったら困るトコだけど」
 引っ掻くようにして、少しだけ中に指を沈めてみる。窮屈だ。なんかで濡らさないと挿れられないだろう。そういや男だから自然に濡れるってことは無いんだよな。
 部屋をぐるりと見回す。サイドボードにハンドクリームのチューブが転がってた。綺麗な手してると思ってたけど、ちゃんと手入れしてたのか。まあ、デュエルしてるとテレビで手が大写しになるもんなぁ。
「な、これ借りていい?」
 返事は待たないんだけどな。チューブを開けて、白いクリームを搾り出す。
「冷たいかもしんないけど、ちょっとごめん」
 クリームを窄まりに塗り込める。海馬が震えながらまだ着たままだったオレのシャツに縋り付いた。
「痛い?」
 クリームの滑りを借りて、指を深くまで埋めてみる。オレの問いに海馬は首を振った。
「痛く、は、ない……」
 これは? と指を動かす。海馬がシャツを掴む力を強くした。首を振ってるのは痛くないってことだろう。クリームを足し、穴を押し広げるようにして指を回す。二本目の指を沈めても、海馬は痛いとは言わなかった。内側の壁を引っ掻くと小さく声が上がる。
「もう一本いける?」
「な、にが」
「指」
 三本目の爪先で二本の指の周りをなぞる。あ、あ、と、切れ切れに海馬が喘いだ。少し緩んだ隙間から爪先を中に入れる。暫くばらばらに指を動かしていると、海馬の声に熱が篭り出した。
「ぁ……、ん、は」
 指を纏めて引き抜く。海馬が大きく息を吐いた。指が入っていた箇所は緩んで、小さく口を開けている。
 なんで抜くんだって顔してる海馬の手を取って、オレの、窮屈過ぎるジッパーの先に触れさせた。下げて、と頼む。さっきので学んだので、ベルトとボタンは自分で外し済みだ。
 海馬の指が躊躇いがちにジッパーの先を掴んだ。ジジ、と金属の擦れる音が天蓋の内に響く。
「そ、れ」
 取り出したものを海馬が指差す。入るのか、とか、挿れるのか、とか、そういう意味だろう。
「怖い?」
 さっきまで指が入ってたそこに押し当てる。海馬は首を振ったが、身体が強張ってて、嘘なのは丸分かりだ。
「大丈夫大丈夫、ちょっとキツイかもだけど、ゆっくりするから」
 腰を抱いて、少し力を篭めた。ぐ、と先端が中に入り込む。反り返った海馬の背中を撫でさすりながら、ちょっとずつ腰を進めた。
「う、ぅ……ぁ」
 結んだ唇から漏れる声がちょっと苦しそうだ。心なし膨れて見える下腹に手のひらを当てて温めるようにしてやると、すん、と海馬が鼻をすすった。そのまま、少しの間海馬が慣れるのを待つ。腹をさする傍ら、圧迫感から気を紛らわせるように、萎えてた海馬のを弄ったりしてみた。白くなりかけてた顔に赤みが戻ってほっとする。
「じょ、う、のうち」
 呼ばれて、ん、と返事をする。もういいと、消えそうな声で海馬が囁いた。
「平気?」
 聞きながらそろりと抜き挿しを開始する。腰を抱えると骨の感触が分かって、そっとしないと壊しそうで怖い。壊れる、なんてこと、海馬だって男の身体なんだから無いって分かってるけどさ。この骨っぽい、ちょっと可哀想になるくらい細い腰とか足とかを目の当たりにしたらそんな気分にもなるって。
「あ、ぁ、ん、……ぁ、あ」
 ゆるゆるとオレが動くのに合わせて海馬が喉を振るわせる。掠れて、幾らか引っ繰り返ったような声が色っぽくて、壊しそうで怖いなんて考えてる余裕が奪われそうだ。
「あ、ん、もう、少し」
「え? 何?」
 もう少しの意味が解らなくて問い返す。海馬が真っ赤になって俯き、速く、と呟いた。
「あ、っ」
 それでスイッチ入らなかったら男としてどうよ。奥まで突き挿れて、海馬の会陰に恥骨を押し付けた。びくりとそこが震えたのを感じてからまた一気に引き抜く。繰り返しそうしてると、海馬の中の温度が上がった気がした。
「や、じょ、の……ぁ、待っ」
「ごめん無理」
 はぁ、と吐き出す自分の息も荒くなってるのが解る。気遣うとか、焦らすとか、もう考えてらんねぇよ。僅かに、怪我させないようにって、思う気持ちが残ってるくらいだ。
「ん、んぅ、あ、ぁ、あ、あ、じょう、の、ち」
 海馬の手が、結局着っ放しだったオレのシャツを引っ張る。何、と、格好悪いくらい余裕の無い声が出た。
「あ、な、にか、っ、あ」
 オレが揺さ振ってる所為だろうけど、まともに喋れていない。骨っぽい足がオレを締め付けてくるってことは、何か、多分、きそうとかイキそうとか、そういうことだと思うが。
「イイ? な、海馬」
 耳元に吹き込むと海馬がこくこくと頷いた。髪の毛がぱさぱさ揺れて頬に掛かる。
「オレもイイ。ってか、そろそろ限界」
 グラインドの幅を大きくした。海馬の放置気味だった前に片手を回して、いつ出すかのタイミングを計る。前後から追い立てると、数度目の突き挿しで薄い身体が痙攣するように震えた。挿し込んだ場所がぎゅっと締め付けるように蠢く。
「っ、悪ぃ……っ」
 抜いた方がいいんだろうなと解っちゃいたが、そのまま腰を押し付けるようにしてオレも欲求を吐き出した。


 萎えた自分のものを抜くと、つと白い糸が一瞬伸びて切れる。んん、と海馬がむずがるような声を上げた。
「大丈夫か?」
 力が入らないみたいに投げ出された足を揃えてやる。大丈夫だと答える声は掠れに掠れていた。
「水取ってくるよ」
 部屋の片隅、まるでホテルのように置かれた小さな冷蔵庫へ向かう。途中でシャツを羽織り直して、かさりと鳴った音にオレは胸ポケットの存在を思い出した。
 ポケットの中の硬い紙を取り出す。お守りみたいに持ち歩いてるなんて、知ったら海馬はどう思うんだろうか。長方形の紙の中央には、オレの名前が書いてある。城之内克也様。達筆じゃない。どうも海馬が気にしてるらしい、丸い丸い筆跡だ。
 海馬はこの字を気に入ってないみたいだけど。文字の上にちゅっとくちづける。オレは、この字のお蔭で、海馬が不器用なりに可愛い奴だってこと、それから、ここが願望の世界じゃなくてちゃんと現実だってことを、ちゃんと現実の海馬と一緒にいるんだってことを、毎日新鮮な気持ちで思えるんだ。
 城之内、と、擦れた声で海馬が呼ぶ。水を取ってくる程度でなんでそんなに遅いんだって、痺れを切らしたに違いない。慌てて冷蔵庫を開け中からミネラルウォーターのボトルを取り出した。手にしてたカードも胸ポケットへ戻す。
 願望の世界も良かったよ。でも、やっぱり、この現実こそが、オレの二つと無き大事な世界なんだ。


End.

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沢ノ井藤子/FLP

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