春も待てない話
2010.02.18 


「何をやっている、貴様は。」

 とてつもなく高い位置から見下ろされている。もうこうなったら童実野タワーのてっぺんくらいから見下ろされたいものだ。そうすればこうしてまじまじ相手の顔を観察しないで済む。
 灰色の厚手のコートに、暖かそうなカシミアのマフラー。組んでいる腕の端に見える指先は黒革の手袋で覆われている。見事な重装備だ。大げさだな、と思ったが、考えてみれば今は真冬だったのだ。寒そうに着込んでいる人間を見て初めてそれに気づくなんて、自分はどこかいかれてしまっているのではないか。城之内は笑った。透かした野郎の呆れたような吐息が白い。

「…何やろうとしてたんだっけ?」
「知るか。オレが訊いている。」

 随分抑え目の声だ。いつも何かの演説かと思うくらい肩肘張って喋る男だと言うのに。今日は人の10倍は小さい堪忍袋の、やっぱり人より10倍脆い緒がよく耐えているらしい。寒くてあまり口を開きたくないのだろうか。そう思えばその仏頂面の真ん中にくっついている鼻も赤く見えてくる。何もかも人間離れしてしまったかのような男だからだろう、寒さを正常に感じていると思っただけで新鮮だ。

「じゃあ…今作ろうぜ。」
「『やろうとしていたこと』をか?」
「うん。」

 頬にひやりと何かが当たった。時々白い物が視界の端をちらついているから、小雨が雪になっているのだろう。あと一ヶ月もせず三月に足を突っ込む予定なのだが、今年の冬はやけに愚図っているらしい。海馬が降りて来た車から堪り兼ねた運転手が降りてきて、困り顔で城之内と海馬とを見比べている。城之内が海馬邸の門前に寝そべってさえいなければ無視することもできただろうに。あまりに間抜けなその顔がおかしくて少し笑った。

「よし、海馬。今から喧嘩だ。一発殴らせろ。殴れるもんなら、そっちも殴っていいからよ。」
「何の意味がある。貴様のような男は、このオレが手を出すまでもない。」
「決闘は?」
「決闘も同じだ。」

 海馬は組んでいた腕を解いた。相変わらずこちらのことを時折触れてくる小雪より冷たく見下ろしながら、その両手をコートのポケットに突っ込んだ。海馬は喋りかける対象のことをいつも冷たく見下ろしている(皮肉なまでの高身長ともなると大抵の人間に対してそうなる)。そして今は、弟と似通った目――心底呆れた色で城之内を捉えている。

「放っておけ。」
「は…」
「構わん。」

 唐突に声をかけられた運転手は困惑顔を深くしている。硬い靴音がコンクリートを蹴って城之内を追い越した。億劫に思いながらも立ち上がってその背を見送る。ずっと冷気の中に安置されていたせいで体が硬い。少しよろけた。

「それで。」
「あ?」

 ここに来てやっと、海馬は苛ついたような顔をしてみせた。振り返る表情で暗にどうするのかと訊かれているのに一拍遅れて気が付く。ほんの数秒の遅れだったが、海馬にとってみれば致命傷だったんだろう。さっさと歩き出したので、一度左右を見渡して後を追った。指先も足先も感覚が消えて、寒いかどうかも分からない。

「海馬、今日は寒いか?」
「オレにわざわざ聞くまでのことか。」
「もう麻痺しちまったよ。」

 馬鹿馬鹿しいと思ったのか、それ以上返事は無かった。




 ここ2年くらいの間で、様々なことがあって、色んな物が随分と形を変えたように思う。学年がまたひとつ上がって、そういう騒々しい出来事から遠ざかってみれば、この2年がどんなに濃かったか分かる。戻れるなら戻りたいが、戻れるわけもないから、城之内たちは前に進むしかない。ちゃんと前を見て歩いて行けよって、遠くへ行ってしまった親友が背を押しているのだ。
 それは別に城之内だけの話ではなかった。あいつに関わった人間はみんなそうだ。そんなこと、分かりきっているはずなのに忘れていた。

 あの男が突然学校に現れたのは、夏休み前のことだった。二年の中盤で、アメリカに行くなんて高笑いしたっきり、音沙汰も何も無かったと言うのに。いや、一度──熱く乾いた砂漠の向こうでその姿を見はした。あの男は神殿の中にまで足を踏み入れていない。その事実にひどく腹は立った。今でも苛立ちが湧き出てくる。だが、薄情者と罵る気にもなれなかった。

 ──ガララ、

 建て付けの悪い教室の扉を乱暴にスライドする音。それは、放課後すぐの騒がしい室内を一瞬で殺してしまった。驚きと困惑の視線の集中など気にもかけない様子で、男──海馬はすぐに目的の人物を発見したらしい。広い歩幅で、そのお目当て以外はこの世に存在しないかのように直進している。

 歩く度揺れる腕が白い。遠目にも首筋が白い。夏服だ。自分も着ているはずなのに、海馬が着るとひどく恥ずかしいおかしな格好に見えた。いつもの馬鹿みたいな服装の方がよっぽど恥ずかしいだろうに。心の中で嘲笑する。だが海馬は城之内のことなど最初から眼中にも無い。

「遊戯。」
「海馬くん!えっ、えっと…もう放課後だよ!」
「そんなことはどうでもいい!」

 思わぬ人物の突然のお出ましにさすがの遊戯も動転しているらしい。続く会話も成立しているようでしていない。だがそんな歯車の合わない音を、クラス中の人間が耳をそばだてて聞いていた。

「…海馬くん。」
「……。」
「決闘?」
「…他に何がある。」

 くすり、遊戯が小さく笑った。記憶の中の映像に比べ、その決闘の始まりはえらく静かだ。男女問わず認知度の高いゲームであるM&W、しかもあの遊戯と海馬の対戦である。遠巻きだった生徒たちがじわじわと二人の周りに集まっていく。城之内もその他大勢の一人だった。
 つっかかって行くこともできただろう。何も知らない周りの人間とは違う。それでも黙って決闘の行く末を見つめていた。

「フン…貴様には『さすが』という言葉を使ってやってもいい。」
「ボクも、やっぱり『さすが』海馬くんって思うよ。」
「くだらない戯れ言は相変わらずか。興醒めだ。」

 遊戯が劣勢をひっくり返した。今やすっかり観客となった級友たちがどよめく。海馬は当然面白くないんだろう、声色は低い。

 しかしその口元には随分柔らかい線を描いていた。夏の長く強い日が滑り込んでいる瞳が白く光っている。そこに気負いはない。馬鹿みたいな建前もない。あれは純粋にゲームを楽しんでいる表情だ。

 その目には遊戯が居る。その背には窓がある。その向こうには青空があり、白い雲が海馬の不健康な肌色を馬鹿にしている。そして空と同じ色になっている海馬の目には、やっぱり遊戯が居る。

「よし!またボクの勝ちだぜ!」
「く…っ!まだだ…、チッ」

 二連敗を喫した海馬が心底悔しそうに腕時計を睨んでいる。お忙しい大企業の社長さんの、時間の限界というヤツらしい。名残惜しげに再戦の約束を取り付ける遊戯を適当にあしらい、慌ただしく海馬は去っていた。来るのも突然、帰るのも突然。まるで現実味のない男だ。

「城之内くん?」

 話しかける気もしない、そう思っていたはずなのに、遊戯の声で海馬の後を追って教室を飛び出していることに気づいた。




「乗せろよ。」

 ぶっきらぼうに一言だけ。海馬が例のごとく高級車に滑り込もうとする直前だ。数秒無視、その後煩わしげに海馬は城之内を振り返った。続く言葉を促されているのは痛いほど鋭い視線で分かったが、何も返さない。そもそも城之内にも、何故こんなことをしているのか分からないから何も返せない。

「瀬人様…」
「勝手にさせておけ。」

 海馬が城之内から極力距離を取るようにシートの奥へと腰を落ち着けた。城之内もなるべく乗り込んだドアに近い方に腰を下ろす。

 そう言えばこいつ、瀬人って言うんだっけ。

 複雑そうな顔でドアを閉め、運転席に乗り込む運転手を目で追いながらぼんやり思う。すぐに景色がゆるやかな流線型を描き始めた。窓の向こうに半透明の自分が居た。笑ってしまいそうなくらい不機嫌な顔だ。

「おい、なんか喋れよ。」

 車中は静かだ。外の音どころか、車の走行音さえほとんど聞こえない。これが高級車ということなのか、海馬との心理的距離なのかは今ひとつ分からない。

「…何故、何をだ。」

 短い沈黙を挟んだ海馬の声は、どこか投げやりだった。視線を隣に持っていく。腕を組んだ海馬はこちらを見てもいなかった。窓の向こうにかすかに見える表情はどこまでも無表情だ。嘲る様子もない。不機嫌ですらない。

「こっち向け。」
「だから何故だ。」

 やっと少し表情が歪んだか。だがそれが分かったのも窓越しだ。目の前にはただ気味の悪いほど白い首筋しかない。血液がざわざわ騒いでいる。理由は分からない。だがライターか何かで、足の裏から炙られているみたいな気分だ。最悪だ。

 身を乗り出した。海馬が気配を察知して怪訝を顔に映す前にその腕をぎりりと引いた。喚かれることは百も承知だったので、苛立ち紛れにその口を塞いだ。

 静かな車内に鈍い音がしたかと思えば、それは城之内自身がドアに背と後頭部をぶつけた音だった。海馬は心底憎々しげにこちらを睨みつけている。その背の窓に映る城之内も同じような顔だった。

「車を止めろ!」

 運転手が急ブレーキを踏む。妙な体勢だったせいで前の座席に頬をぶつけた。上半身を起こす前に真横のドアが開き、海馬に外へ蹴り出されていた。可哀想に、ドアを開けた運転手を下敷きにしてしまう。

 目の前には大きく開いた鉄柵の門があった。それから見覚えのある馬鹿でかい屋敷。ちょうど海馬邸の門前に着いたところだったらしい。運転手の上から退いてやりながら海馬を見上げる。その明らかな軽蔑の目を。

 なんだ、こいつ、ちゃんとオレのこと見れるんじゃねえか。

 無心にそれを見上げた。軽蔑されようが何だろうが腹も立たなかった。反応の無い城之内に焦れたのだろう、海馬は悪態を吐きながら一人屋敷へ歩き出していく。その背を見送った。白いシャツは太陽光を反射してよく光る。運転手が慌ててそれを追った。海馬は一度もこちらを振り返らない。

 少しも面白くないのに、一人、笑いが漏れた。




 それから、時折、あの冷たい鉄柵の前に立つようになった。帰るまで無視されることがほとんどだが、たまに色々と勘違いした気のいい使用人やガードマンに、小部屋で茶の一杯をご馳走になることはあった。そもそも海馬は世界中を飛び回っていて、屋敷に居ることは稀らしい。城之内も、特別海馬に会おうと思っているわけではない、のだと思う。ならば何故そんな馬鹿げたことをしているのかと問われれば、何ひとつ答えられないのだが。

 何もせず、ただぼうっとしているというのは、案外に苦痛だ。それでも城之内はその門の前に立った。目の前の街路樹で季節を測りながら門に背を預ける。じりじりと気持ちが炙られているように感じる日があって、居ても立ってもいられなくなるのだ。だから仕方なくそこに足を運ぶ。

 一度だけ、海馬兄弟の帰宅と鉢合わせたことがあった。冬前のことだ。だがその時もモクバの部屋に通されただけだった。海馬は出てこなかったし、やはり城之内も会おうとは思わなかった。




 そんな不毛を繰り返している内に冬になった。海馬たちはしばらく日本に籠もることにしたらしい。根は人の好いモクバに屋敷に引っ張られることがぐっと増えた。もうモクバの部屋まで目を開けずとも辿り着けそうなくらいだ。

 だが海馬の姿は相変わらず見なかった。




「おい!城之内!」
「…んあ?」
「お前、馬鹿だろ!」
「うっせー。馬鹿じゃねえ。」

 寄りかかった鉄柵がゆっくり動く。リモコン操作なのだろうか、門が開いていく。それにつられてどんどん姿勢が傾いて、最終的にコンクリートに頭を預けた。体中どこも感覚が無い。暇だからってうたた寝はまずかったらしい。

「モクバ…オレ起きらんねえ…」
「だから馬鹿だってんだぜぃ!」
「もう起きあがる気起きねえわ…」
「医者要んのか!?」
「いらね…」

 モクバの息が白い。海馬よりは低い位置にある大きい目が兄と同じくらい冷たいのに笑った。モクバはちゃんとオレを見てんのにな。思わず笑うと、モクバが呆れた風に首を振った。

「いつから居たんだよ!?オレが帰ってくる時居なかっただろ!?」
「いや…居たぜ?車のジャマになっから避けてだな…」
「お前な!気づくかよそんなの!」

 はは、ついに声まで漏れた。冷たい空気が乾いた笑いしか作らない。しかしモクバは表情に苛立ちを深めただけだった。しゃがみ込んで、ペチペチと頬を叩いてくる。

「おーい、死ぬんじゃないぜぃ!」
「誰が…」
「いっそ潔く死んじまうか?ムカつくから黙ってたけど、お前が凍死しないように兄サマはオレを早く帰してんだぜぃ!ったく、いー迷惑だからもうやめろよな!」
「は…?」

 笑いが死んだ。ついでに思考も共倒れだ。受け入れ難い言葉がすぐ上を白く流れて消えていった。モクバを凝視する。

「…何て?」
「ま、兄サマはお前の名前なんか一言も出さねーけど。忙しい時でもオレを追い出すのに必死なんだぜぃ。」

 ほれ、目のすぐ上に何かが被せられた。焦点が合わず、仕方なく動きの鈍い指先で辛うじてそれを摘む。


   20時には帰る
          瀬人


 かなりクセのある、あの性格に合わない丸っぽい字が、行儀悪く紙の上で踊っている。そう言えば瀬人って言うんだっけ、そう思ったのは二度目だ。一度目は、窓ガラスに映る不機嫌な自分が考えていた。

「会議続きだからな、手の空いた時にオレの机に置いとくんだぜぃ。そしたらオレは、文句も言えずに帰るしか無いだろ。」

 死んだ笑いが生き返って喉元を騒がせた。このまま笑い転げたい気分だ。もう感覚さえ失われたはずの神経がカッと熱くなって、口から溢れ出そうとでもしているのか。

「…きったねー字。」

 なんだか突然に、やり方を間違えたことを悟っている。ずっとこの門の前で、城之内は、このメモを待っていたのだ。多分それは、もっと早く気づいていれば手に入れられたものなんだろう。

「…で、もうすぐ8時だけど。」

 心底呆れた、そういう顔でモクバが呟いた。オレは起きあがる気もねえんだ、そう返すと、顔面にカイロがぶつけられた。


End.

あすてあ様

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