学ぶのに遅すぎるということはない
2010.05.11 


俺の部屋では二つの呼吸音が聞こえる。


「く………っ」


まだ外も薄暗く、朝の活気を吸収するかの如く静かな午前四時。
着替えも程々に、俺は机に向かい一枚のメモを書いていた。
それは何処にでもある伝言メモで、たった一言書けばいい話しなのだが、何故俺がかれこれ三十分も万年筆を持ちながら格闘しているかと言うと。

(書け…ない……だと…?)

紙に書かれたいびつな文字は、己自身でも人に見せる事を躊躇う程酷い有様だった。
普段文章というものは全てパソコンで済ませる上、書くとしても日本語ではないし、寧ろ金額という意味で数字が多い。
それならばよいのだ。ただ、本当に日本語を書くのが好きではない。苦手だとは思っていないし認めないが、人様に堂々と見せられるものではないと一応自覚はしている。
今はこうしてベッドで大の字になり寝ている凡骨に宛て、メモを書いているのだが、気に入らなくては破いては捨ての繰り返し。
ごみ箱にはティッシュと混ざって大量のメモ用紙が墓地へと送られていった。


「フン…たった一言ではないか…、一言…書けばいい」


そう必死に自身をフォローしてみるも、焦りからか、はたまた苛立ちからか、時間が経過するにつれ、手は汗ばみ震える。
握っている万年筆を今すぐにでもへし折ってしまいたかったが、何とか堪えて筆を進めるも、今度は力が入りすぎて紙が破けてしまった。
一気に頭に血が上り、振り上げた拳を机にぶつけようと思ったが、寸前でぴたりと拳が止まった。
そう、男はまだ夢の中だ。
こんな些細な音で跳び起きるとは思えないが、もしも気付かれたらそれはそれでかなり厄介である。
どうせ、この文字を見た途端、目を丸くし大声で笑いながらからかってくるに決まっているからだ。それだけはどうしても避けたかった。
こんな利潤のない事を何故俺が。


「…ぐがーっ……」


(汚い寝面を晒しおって…、手っ取り早く貴様が起きていれば問題なかったのだ!)

簡素なメモに文字を踊らせるだけ。こんなに日本語を書いたのは久しぶりかもしれない。
窓の外は既に薄い青が世界を覆っている。六時には取引先の人間に契約の話を着けなければならないというのに。
ちらりとシルバーの腕時計に視線を移せば、針はもうすぐ南東を指す。
時間があまりにも早過ぎる。否、俺が遅すぎるのだ。ぐるぐると脳を回る両極端な諦めとプライドが決闘を始めた事で目眩がした。
今、時間が金で買えるのなら、この場でいくらでも積んでやりたい。
ともかく、こう苛立っていては何も進まないと、まずは蔑ろにしていた着替えを先にする事にした。大手玩具メーカー社長との契約、そして交渉が数時間後に控えている。
真新しいワイシャツに袖を通し、今回は地味な黒いスーツを羽織る。ネクタイの色は決まらない。
鏡に映る自身の姿は、背後にどんよりとした空気を纏っている。それはきっと、この着慣れない色のせいだ。
首元のボタンだけは外し、再度問題であるメモを前に椅子に座る。睨めっこをしているだけ時間の無駄だと、万年筆を強く握り、立ちはだかるメモという敵に挑んだ。


「………何、やってんだ?」

「!」


数字を書き、問題の日本語だと精神統一をしている途中。掠れた声がベッドの方角から聞こえる。俺は思わず肩をびくりと大きく震わせ、勢いよく振り返った。
そこには目を擦りながらじっとこちらを見つめる男の姿。しまった。と思うにはもう遅い。
凡骨は俺の手元にあるメモに気付き、下着一枚でゆっくりと近付いて来る。
服を着ろ馬鹿者!だらし無い!そう叫ぶ余裕さえなかった。


「…なに、これ」

「う、うるさい!貴様には関係な…っ」

「二十時には帰る……瀬人…?」


不思議そうにメモを見つめた後、机に転がる丸まったメモだった物たちに視線をやった。
寝起きの馬鹿ではイマイチ理解できないのか、三秒程の間が開いた後に、今度はごみ箱を見つめる。
そこで漸く理解できたのか、凡骨は予想通り大きく目を見開いた。

(最悪だ)

俺が嫌悪に頭を抱えている頃、凡骨の手は丸まったメモを取り、広げてじっくりと読む。たった一言、帰宅を告げる言葉のみなのに、それはもう厭味に聞こえる程だ。


「個性的な字だな!」

「…!」

「なんか、言っちゃワリィけどすっげーかわいい」


個性的というのは褒め言葉ではないように聞こえる。
だが、散らばる紙を愛おしそうに見つめるソレは、昨日の夜の出来事を彷彿とさせる視線で。


「ん?耳赤いぞ?」

「だっ、…黙れ!」


皮が硬く、肉質のある指先が耳に触れると、ぎりぎりまで保っていた熱が上昇し、脳天から爆発して蒸気が出そうだ。
俺の気も知らないで、これではやはりたたき起こして口で言った方が早かったではないか。
メモなんて形に残るものではなく、すぐに消えてしまう声で伝えてしまえばよかった。
ああ、身体が熱い。
俺に触れる手を振りほどく事が出来ないのは、何故だろうか。


「こんな沢山書き直してよ……。俺にいいとこ見せたかった?」

「自惚れるな!そんなわけ…」

「メールとか、留守電なり他の奴に書かせるなり、方法は色々あったのに、なんで」


先程までの阿保面はどこへやら、真剣な表情でこちらの顔を覗き込む。
こういう時のこの男の顔は苦手だ。力強く、それでいて優しいものだから。言い訳というものをさせてくれないだなんて、凡骨のくせに生意気。
俺は言葉を呑んで、ただ知らないふりをした。
近付く距離は後数センチ。逃げ場がない、逃げるつもりもない。


「海馬」


受け入れた唇は、生温かった。
朝っぱらから何をしているのだろうとぼんやり思ったが、真っ白に浄化されてゆく。
意識がふわふわと浮いたような感覚にただ襲われた。
この男に触れられるといつもそうだ。無自覚な悪戯に、俺は振り回されてばかりで。


「…仕事、頑張れよ。仕方ねぇから二十時までは待ってやるぜ!」

「待たさせて下さい。の間違いだろう」


そっとポケットの中に入れたメモについては、今回だけは見て見ぬふりをしておこう。
凡骨のことだ、どうせ一緒に洗濯でもして粉々に粉砕されるのがオチというもの。
次回は普通にメールで事を済ませよう。何故メールという選択肢が出てこなかったのか、今や謎である。それとも、モクバに書かせようか。
まあ、たまにはメモというのも悪くはないのかもしれないが。
そんな事を考えてしまうだなんて、きっと馬鹿げている。


「なぁなぁ、次はラブレターがいい。大好き!とか書いてく…」

「調子に乗るな」

「…すいません」



いってらっしゃいと、ドアを挟んだ向こう側。笑顔で手を振る人間が居る。
認めたくはないが、俺はこの顔を見る為にまたあの部屋へと足を運ぶのかもしれない。

今日の服装は黒いスーツに、赤いネクタイ。


End.

AN様

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