甘やかな筆跡
2010.07.09
朝方までバイトに精を出していた城之内は、教室の机に突っ伏して惰眠を貪っていた。
一時間目が終わり、二時間目に入っても一向に起きない。
城之内のいぎたなさには教員も同級生も慣れているので、誰も起こそうともしない。
三時間目の途中で海馬が登校してきた。
教室の空気が揺らいだが、城之内は眠りこけている。
「海馬君、おはよう」
遊戯が嬉しそうに、小声で挨拶をする。
海馬は少しばかり口元を綻ばせ、目礼を返した。
本人は無意識だが、秋波、といっても差し支えない。
遊戯は照れくさそうに「エヘ」と笑う。
海馬は席に着くなり、欠席していた日数分の課題のプリントを出して、ものすごい早さで書き込んでいく。
休み時間になると遊戯は海馬の隣に行った。
海馬は一週間分溜まっていた課題を、三時間目の間にきっちり片付けている。
「海馬君、今日はお昼御飯一緒に食べれる?」
「いや。もう会社に戻る」
「えええー」
遊戯ががっかりした顔をすると、海馬は悪い事をしたような気になる。
「じゃあ今、これ食べて」
遊戯が差し出したのは、紙の両端を捻って包んである飴だ。
幼児には決して与えてはいけない、大きめのサイズである。
「疲れてる時は甘いものって言うでしょ」
「別に疲れてはおらん」
海馬は、長い時間、口に物を入れているのは好きではない。
電話がかかってきた時に話し辛いからだ。
「疲れてなくてもおいしいから。ね、食べて?」
大きな目で幼い子供の様にせがまれると、海馬は断れない。
さっさと噛み砕いてしまえばいいかと思い、受け取る。
包み紙を開き、海馬の小さな口が白い飴を咥えようとした時、遊戯がひょいとしゃがみ、海馬の正面と左右から携帯電話の動画撮影モードの作動音がした。
海馬は手を止め、青みがかった瞳だけを動かす。
寝ている城之内を除いたクラス全員が、海馬に携帯を向けている。
低い位置にある遊戯の携帯のレンズを見ながら、海馬が訊ねる。
「何を撮っている?」
「食べて?」
「…何を撮っている?」
「『アーン』ってやってみてもいい?」
海馬は飴を口に含んだ。
おお…、とざわめきが起こる。
「この飴噛まない方がいいよ、歯にくっつくから。本田君なんか詰め物持っていかれちゃったんだ」
『そういう事は先に言え』、と言おうとしたが、言えない。
下手に口を動かすと、飴が口から飛び出そうになる。
遊戯も飴を口に含み、にっこりと笑う。
「おいし〜☆」
練乳のチューブを口に突っ込まれた様なくどい甘さが口内に広がり、海馬は『甘すぎる』、と言いたいところだが言えない。
口を開いた途端、白い涎を零してしまいそうだ。
遊戯は飴を口に入れたままでも不都合がないらしく、普通に喋っている。
「甘くて、どこか懐かしい味だと思わない?」
海馬はふんふんと頷く。
「海馬君は苺に練乳かけて食べるの好き?」
海馬は飴を左の頬に押しやり、プクリと頬を膨らませて慎重に話し始める。
「余計な甘みなど添加せん。素材の味を損なうからな」
「モクバ君は苺が浮きそうな位かけてたよ」
「…練乳そのものを味わっていたのだろう。おい、何を撮っているのだ」
「海馬君のほっぺがいい感じになってるから」
海馬は左頬の飴を口の真ん中に戻した。
遊戯を含む全員が携帯を閉じる。
遊戯のお喋りに、海馬は「ふん」と「ふぅん」という口を開かないでできる相槌を返しながら、帰り支度をした。
海馬が、城之内の丸まった背中にちらりと目を走らせる。
「城之内君、ちっとも起きないね」
海馬は幾分小さくなった飴を今度は右頬に押しやる。
「ふん。バイトなんぞにかまけ過ぎなのだ。わざわざコストパフォーマンスの悪い職種を選びおって。ていよく搾取されているというのに、『人当たりのいい職場』だとかほざいている。勘違いも甚だしい。馬鹿だ。そもそも計算一つろくにできんくせに、仕事と学業を両立させようなどと考える事自体おこがましい」
飴が口に入っていても、城之内に関しては長々と語る海馬を、皆が目を細めて見守る。
教室の後ろの戸口に磯野が姿を現した。
海馬は飴の包み紙の上にボールペンを走らせ、ジュラルミンケースを持ってすっと立ち上がる。
「いってらっしゃーい」
遊戯が言い、クラス中が一斉に海馬に手を振る。
海馬は頭一つ高い視点から皆を見下し、「ふふん」と鼻で笑って前の戸口に向かう。
そして城之内の席の横を通り過ぎる時、城之内の組んだ腕の隙間に、飴の包み紙を滑り込ませた。
マジシャンのように素早く、さり気ない動作だったが、磯野が後ろの戸口にいるのに前の戸口に向かう時点で、海馬の行動はクラス中に読まれていた。
海馬が廊下に出ようとすると、前の戸口に移動して待機し直していた磯野が怪訝な顔をした。
海馬は『何だ』と問おうとしたが、まだ口内に飴があるので、小首を傾げる、という仕草で問うた。
磯野の頬がいささか紅潮した。
「…甘い匂いが致しましたので」
海馬はうっすら口を開き、舌の上の白い飴を見せた。
磯野が真っ赤になる。
海馬は口を引き締めて颯爽と歩き出し、磯野は赤い顔のまま付き従った。
四時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。
杏子、本田、御伽、獏良、遊戯が机をくっつけて昼食の準備をしていると、城之内が目を覚ました。
「やっと起きたわね城之内。もうお昼よ?」
「あー昼かあ…腹減ったあ」
伸びをした城之内が、腕に張り付いた紙切れに気づく。
「何だコレ?」
本田が半笑いになる。
「海馬が食べた飴のゴミ」
「なぬう。あの野郎俺をゴミ箱代わりにしやがったのか。ぎったぎたにしてやんぜ!」
「科白と顔が合ってねえぞ」
城之内は目を輝かせ、口元は盛大に緩んでいる。
「だ、だってよー…これ」
海馬が残した飴の包み紙には、子供っぽい書体で、
『 20時には帰る
瀬人 』
と書かれている。
「ちょ、コレどーよ?この丸っこい字、どーよ?海馬だぜ?海馬がこの…っくああああもうっ可愛すぎっ!」
「落ち着きなさいよ。あんた海馬君の字、見た事なかったの?」
「知ってるけどさあ、知ってるけど…かあああっ!」
御伽が耳を押さえる。
「うるさいってば。まあ確かに、あの端正な顔立ちと尊大な振る舞いに、この丸文字は反則かな」
「だろだろ?」
「でも内容の方が気になるんだけど。海馬邸に居候始めたの?」
「御伽よう、同棲って発想はねえのか?」
「想像力の無駄遣いはしない。で?」
「バイトのない日は海馬の家に通ってます」
杏子が目を吊り上げる。
「晩御飯たかりに行ってるんじゃないでしょうね?」
「向こうが勝手に用意すんだって」
「御飯時にお邪魔しちゃいけないって教わんなかった?」
「教わってねえし。邪魔してねえし。あいつんちのメシめちゃめちゃ旨いのな!」
獏良がたこさんウインナーにぶすりとフォークを突き刺す。
「ついでにお風呂ももらったり?」
「おうよ。なんせ俺は役に立つからな。俺が行った日は『仕事にならん!』つって、あの仕事人間の貴重な安息日になってんだぜ」
「あはは。思いっきり邪魔しに行ってるだけなんだ」
城之内は獏良の的確な発言を無視して、手中の紙をクンクンと嗅いでいる。
「なんかいい匂いする〜。海馬の匂い…じゃねえな。あいつのはもっとこう上品つうか。なんだっけ、この甘ったりいガキくせえ匂い。覚えあんだけどなあ。このコロンコロンした字にはぴったりの匂いなんだけどなー」
「飴の匂いだよ。練乳味の。僕が海馬君にあげたんだ」
「あー練乳の匂いだ。遊戯、俺にもくれよ。今日弁当ねえんだ」
「もうないよ。海馬君と食べたのが最後」
「げえーマジかよ。誰か俺に糖分を恵んでくれえ」
お弁当グループはそれぞれの弁当をぱくつく。
「んだよテメエら無視かよ。態度悪いな」
城之内が文句を言うと、遊戯が膨れっ面で呟いた。
「…千のキャンディより甘いものを手にしているくせに」
21時53分。
海馬の私室のドアが勢いよく開いた。
「おっかえりい。残業お疲れさーん」
海馬の部屋のソファには、前髪をクリップで留め、ジャージ姿で寛いでいる城之内がいる。
海馬はスーツにネクタイを締め、なぜか風呂敷包みらしき荷物を手に提げている。
「まだいたのか」
「たりめーじゃん。帰るってわかってんなら俺は何時間でも待てるぜ?」
城之内がソファに寝転がる。
「ふん」
「ここ空調きいてっし、食いモンもテレビもあるしなー」
海馬が眉を顰めた。
「よもや、八時からずっとグダグダしていたのではあるまいな」
「これ貰ってからずっとフワフワしてましたが」
城之内が飴の包み紙を、人差し指と中指でカードの様に挟んで見せる。
海馬の怜悧な目が光った。
「…凡骨」
「あん?」
「貴様は今日一日何をしていた?学校でも寝ていただけだろう。ここに来てからでもどれだけの時間があったのだ」
「えーと、六時に来たから…」
「六時?」
「いやあ、お前が早く帰れたら晩メシ一緒に食えると思って。あ、メシ食った?」
「それどころではない」
「食えよ。俺まだこれ読んでるし」
城之内が最新のゲーム誌を取ろうとすると、海馬が雑誌を払い落とした。
「うお」
「貴様にはやるべき事があるだろう」
「え、もうベッド行く?」
「大馬鹿者がっ!」
「声でけー」
「予習・復習・問題集!さっさとやらんか!」
「なんで夏休みのお母さんモードなんだよ」
「誰がお母さんかっ!」
「なんか風呂敷持ってっし」
途端に海馬の怒りが静まる。
「ふふん…。気になるか」
「すっげえ気になる。スーツに全然あってねえところが」
「ふはははははは。貴様、今日、飴を食い損ねたろう?」
「あー、うん。なんで知ってんの?」
「貴様はたかが飴玉一つの事で悔しがって涙を流し、あろうことか投身自殺を図ったそうではないか」
「エエエ…どこで拾ったその話?」
「ふふん、ごまかそうとしても無駄だ。まあいい。貴様にいい物を見せてやる」
海馬は荷物をテーブルに置き、結び目を解いた。
中には、あの包み紙の飴が大量に入っていた。
あまりの量の多さに、城之内の口がポカンと開く。
「ふはははははははは!驚きすぎて声も出ないか!」
「…これ、どったの?」
話は夕刻に遡る。
背の高い方の遊戯が海馬コーポレーションの社長室に現れ、『海馬がおいしそうに食べていたあの飴の事なんだが』と大音量で前置きしてから飴の商品名を連呼し、城之内がいかに食べたがっていたかをまことしやかに語った。
話し終えた遊戯が、開け放したままにしていた社長室のドアから廊下に出ると、クロスのかかった台の上に、くだんの飴が山積みになっていた。
海馬コーポレーションの社員が、遊戯の話を聞きつけるやいなや手分けして、付近のコンビ二、スーパーマーケット、百貨店の食料品売り場にある『瀬人様好みの飴』を買い占め、こっそりと、且つわかりやすく、献上した次第である。
遊戯は『情報をリークした駄賃だぜ!』と言って、口とポケットいっぱいに飴を詰め込んで帰った。
「…要するに、もう一人の遊戯も飴が欲しかったんだな。社を挙げて口車に乗せられてんじゃねえか…」
「何をごにょごにょ言っている」
「いや何も。えーと、それで何で風呂敷?」
「飴を袋に移すのが面倒だったので、下に敷いてあった布でくるんで持って帰って来たのだ」
海馬は得意気に言った。
「風呂敷ですらない物を堂々と提げて来てドヤ顔されてもよ…」
「あと二かかえあったが、それはモクバの部屋へ運びこませた。貴様にはこれだけあれば十分だろう」
「もう二かかえ?社員、買い過ぎ」
「ふん、身投げなど駄犬には過ぎた行為だ。分を弁えろ。人様に迷惑をかけるな」
「お前が言うな。つうか素直に『長生きしろ』って言え」
「飴はくれてやるから、とっとと帰れ凡骨」
「話噛み合ってねえよ。何で帰んだよ」
「急ぎの仕事が入った。遅くなったのもその所為だ。枠は指示してきたが文書に起こしてしまいたい」
「今から?」
「ああ。今日中に処理する」
『処理しなくてはならない』でなく、『処理する』という言い方が海馬らしい、と城之内は思った。
海馬は布の端と端を元通り結ぶと、パソコンを置いている机に向かう。
「何をグズグズしている。早く帰れ」
「今日中の仕事なんだろ?」
「ああ」
「絶対今日中?」
「そうだ。何をにやけている」
城之内が、布の合わせ目から飴を一つ取り出す。
「コレ食いながら12時まで待つわ」
「待たんでいい。家に帰って宿題でもしろ」
「12時になったらお前を食う」
海馬が言葉に詰まる。
城之内は飴を口に放り込む。
「……噛むなよ」
「んあ?」
「まあ凡骨の歯が欠けようが顎が外れようが、俺の知った事ではないが」
「え、ほんな危険な飴なにょかよ?はもほんな事言われっと余計噛みたくなってひた」
「モゴモゴ喋るな。馬鹿が際立つ」
城之内は飴を頬に寄せる。
「なあ晩メシまだなんだろ。食ってこいよ」
「いらん」
「そーかそーか。早く仕事済ませて俺に食われたい訳だ」
「な訳あるか!包み紙をポケットに入れるな!ゴミはゴミ箱に捨てろ!」
「いいじゃん、散らかしてんじゃねえんだから」
「そのまま洗濯してしまったらモロモロになるだろう!」
城之内がニンマリすると、海馬の目が据わった。
「なんだそのだらしない顔は」
「いやあ、いいお母さんなるわ〜」
「…貴様、凡骨の分際でこの俺を愚弄する気か」
「洗濯しちゃったりしないって。貴重なサイン入りだしな」
ポケットにしまった包み紙を再び取り出し、海馬に見せつけるように、海馬の丸い文字にキスをする。
今しがた口に入れた分の包み紙は、小さく丸めてゴミ箱に投げ入れる。
海馬は不機嫌な溜息を吐き、キーボードを叩き始めた。
絨毯に落ちているゲーム誌に城之内が手を伸ばしかけると、頭に衝撃をくらった。
「いって!」
海馬が投げた教科書の角が命中したらしい。
「何すんだゴラァ!」
「テストも近い。時間を無駄にするな。留年するような輩は屋敷への出入りを禁止する」
城之内は後頭部を擦り、しぶしぶ教科書を開く。
書き込みが一つもない、まるで新品の様な、面白みのない教科書だ。
城之内は口の中で飴を転がしながら、またしても例の包み紙を見る。
しわのついた紙の上に記された、『帰る』という、ごく親しい者のみに向けられる文句。
愛くるしい不器用な文字。
キーボードを滑らかに鳴らしているあの指が。
カードを鮮やかに扱うあの指が。
この文字を綴ったのだ。
城之内の奥歯が飴を噛み砕く。
零時になったら真っ先に、あの美しい指にしゃぶりついてやる。
End.