下の句如何に
2010.09.23 


 めったに学校に現れない海馬の机の中には新品同様の教科書が綺麗に収められていることを知っていた。
 だから、一時間ばかりそれを拝借するぐらいはいいだろうと思ったのだった。
 隣のクラスに教科書を借りに行ったにもかかわらず、隣のクラスの進捗は上々らしく、すでに教科書が(下)に進んでいた。
 おいおい、と思ってすこし遠いクラスにまで足を伸ばしたけれど、すべてのクラスが下巻を持っていた。見事な撃沈である。
 なにを焦っているって今日は絶対に当てられるからである。自分の出席番号がにくい。
 教科書を忘れたなんて行ったらあの教師がなんというかわかったものではない。まぁたぶんおそらく鬼のような宿題を出されるだろう。数学において落ちこぼれのエキスパートの自分であるから、そんなことは百も承知だった。
 どうにも教師に目をつけられやすいらしく、何かといえば指される。
 とりあえずどうにかして教科書を手に入れなければと本田を脅してみたが効果は得られず、もうだめだと椅子に座ったところで海馬の机のことを思い出したのだった。
 自分の席から二列過ぎた右斜め前。海馬が座ると鋭利なあごが綺麗に見える角度だった。
 と入ってもあいつが学校に来ているのを認識したのは数回程度なものだった。大層有名な海馬だったが、自分も不良じみたことをして学校にろくに来ていなかった時期と、あいつがまじめに学校に来ていた時期が綺麗に重なっているようだ。
 今日も海馬は学校に来ていないのだし、もうすぐ下巻に入ることだし、使ってあげないと教科書くんもかわいそうというものなのである。
 遊戯が「え、海馬君の教科書勝手に借りちゃうの?よくないよ〜」と眉を下げたのなんかお構いなしに、意気揚々と席に着いた。危なかった、今日だけは海馬に感謝だ。
 折り目のついていない教科書はなんとなく新しいにおいがする。
 正々堂々と教師に名指された俺は、既に杏から聞いていた答えを予定調和的に答えて事なきを得た。
 今日の俺は超ついている。
 まったくいつも海馬が休んでいるおかげである。
 鼻歌でも歌いそうな気分で数学の時間をやり過ごして誰も座っていない机に近づいて教科書をしまってやろうとしたらひらりと教科書から四角い紙が落ちた。
 なんだと思って拾い上げたら、真っ白な四角い折り紙のようなの真ん中に自己主張しない文字で「20時には帰る」と書いてあった、なんだと首をひねると、その右下の「瀬人」という名前にたどり着いた。
 夜8時かと、20時を頭の中で変換する。
 「まじめくさってなに見てんだよ」
 ひょいと本田が前から紙をひったくって「なにこれ」といった。俺だって知らないから「なんだろうな」と言って返したら「これ海馬の字?」と言っている。
 「どう見ても女の字だろ」
 あほかと言ったら「おまえがあほだろ、瀬人ってかいてんじゃねーかよ」と紙を眼前に持ってこられてイラついた。そんなに近くに持ってこられても逆に全然よめねーての。
 だからなんだよとこめかみに青筋立てて本田を睨んだら、本田の肩が脱力した。
 「…おまえさぁ、海馬の名前知ってる?」
 「海馬」
 「下の名前」
 「…海馬」
 「わかった。お前が恐ろしくあほなことはわかった、あれだけギャンギャン吠え立てておいて海馬の名前も知らないとはなぁ」
 かわいそうなものを見る目で本田が俺をちらりと見てため息をついた。
 このやろう今すぐ本田の部屋に隠してあるエロ本やぶりすてて燃えるごみの日に出してやりてぇな。
 「カイバセトっていうんだよあいつの名前は」
 で、セトっていうのはこういう漢字なんだよ、と四角い紙の右下を指指して、だから、この字は海馬の字、だろ。お前のだいっきらいな海馬の字だっつの。何で俺がこんな解説してやんなきゃなんないんだよと気がそがれたように本田が紙を俺に渡して、借りたものは元の場所にちゃんと戻しとけよ。とまるで面倒見のいい兄のように言いつけて廊下へ出て行った、たぶんトイレだろう。この時間になるといつもトイレに生きたがっているからほとんど100%当たっている自信がある。
 癖のある丸い字は、全然海馬らしくない。もっと達筆な文字を想像していたのに、これはちょっといかんだろう。
 なにがいけないかって?男はギャップに弱い生き物だって言うこの事実。不覚にも「なんだ、かわいいじゃん」なんて思ってしまった自分を自分のこぶしで殴りつけたい。
 コレが誰に当ててかかれたものかなんてほとんど明白で、あいつがこんなものを残そうと思うのはモクバのためでしかありえない。自分とモクバと遊戯しかあいつの世界に存在しないことは百も承知のことだ。
 しげしげと眺めてみても文字の一つ一つが小作りでかわいい。
 さぞかし海馬にすればコンプレックスだろうと考えて笑う。
 思い立って杏に声をかけて小さなメモを一枚貰って、かわいらしいキリンがかいてある紙の中央におかえりと書いて、右下には克也とわざと下の名前を書いてやった。
 自分の字は海馬の字とは似ても似つかない字体だ。
 次に海馬が来たときには教科書は確実に下巻に変わっているだろう。
 誰にもばれないお遊びだった。


End.

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